ダーク ピアニスト
―叙事曲1 Geburtstag―

第7章


 霧の中を進む漆黒の馬車。蹄の音……。そして、雨。高鳴る鼓動のその果てにあるもの……。それは果てしない希望なのか、それとも絶望の果ての孤独なのか。あまりに漫然としていてわからない。夢を見ているのか、それとももうとっくに正気を失ってしまい、地獄への扉を開こうとしているのか。頭の中に響くピアノはいつもコーダへと繋がらない。寸前で落ちて行く……。いつも絶頂から突き落とされ、そして……。

「ルビー?」
彼は揺すられて目を覚ました。車の中だった。
「エレーゼ……」
「もうすぐ到着するわよ」
彼女は淡いクリーム色のドレスに小花と真珠をあしらったドレスを着ている。そして、ルビーも光沢のある黒いスーツに身を包み、貴公子のような装いをしていた。実際、顔立ちのいいルビーは飾らなくても誰からも愛される人形のような雰囲気を持っている。彼らはフラウ ノイエハルトの館に向かっていた。その夜催される夜会に招待されていたのだ。ルビーは温室で摘んだ美しい花束を抱えて少し緊張した面持ちで後部座席に座っていた。その隣にエスタレーゼ。前の助手席にはジェラード。そして、運転しているのはギルフォートだ。

――ギル……
出発の前、不安そうに見上げるルビーの頭を軽く撫でて男は言った。
――大丈夫だ。おまえならやれる
――でも……
いつもならそれだけで安心出来る筈なのに、今日だけはそれが通用しなかった。ルビーはずれてもいない上着を何度も引っ張って身ごろを隠そうとした。

「坊やはノイエハルト婦人に会うのは初めてだったね?」
ジェラードが言った。
「はい」
「彼女はとても芸術に理解のある方でね。坊やのピアノをぜひ聴かせて欲しいと言うのだけれどどうかね?」
「ピアノを?」
ルビーがうれしそうに身を乗り出して言う。
「ああ。短いのを数曲だけでいいんだが……」
「わかった。それじゃあ、ぼく、なるべくきれいな曲を選ぶね。フラウ ノイエハルトに似合いそうな曲を……」
ルビーはうれしそうに微笑すると窓の外を眺めた。街路樹の緑と館まで続く花の道に差し込む淡いオレンジの夕日が映えていた。

 そうして、車は滑るように館の裏の駐車場で停まった。
車から降りて来たルビーの頬は少し青ざめていた。
「近くにいる。前半は普通にパーティーを楽しむんだ。ダンスをして、リクエストされたらピアノを弾いて、だが、ワインを飲みすぎるんじゃない。いいな?」
ギルフォートの言葉に少年は頷く。
「おれは会場を見回って来る」
そう言うとギルフォートは一旦そこで別れて広大な敷地の何処かへ消えた。
「ギル……」
不安そうなルビーにエスタレーゼが声を掛ける。
「ルビー、こっちよ。早くいらっしゃい」

 その庭は見事だった。趣向を凝らした庭園。美しい花と緑、そして鉄や石膏で出来た美しいオブジェ。訪れた人々はその一つ一つを見て、ほうとため息を漏らす。招かれた客達もそれぞれ何か芸術に秀でている者が多かった。が、そこに集まった人々のすべてが闇の世界に生きる者達なのだということをルビーは知らなかった。

「ルビー、おいで。ノイエハルト婦人を紹介しよう」
ジェラードの言葉に彼は急いでそこへ掛けて行く。婦人はやさしそうな茶色い瞳にブロンドの巻き毛。ふくよかな体に薄い品のある紫のドレスを纏っていた。
「まあ、あなたが噂のルビー坊やなの?」
「噂?」
ルビーが訊く。
「そうよ。ジェラードが大切にしている息子がいると評判だったの。その子は天から授かった美しい容姿を持って、この世に稀なる天界の響きを聴かせてくれるという。本当に噂通りの可愛い坊や。今夜はぜひ、その調べを聴かせてくださいね」
婦人はやさしく微笑んだ。
「喜んで。フラウ ノイエハルト。どうぞ、これを」
ルビーは持って来た花束を渡すと婦人の手にそっとキスした。
「まあ、うれしいこと。今夜はどうぞ楽しんでいってくださいね」
「ありがとうございます」

婦人はルビーのことが気に入ったようでずっと彼を傍らにおいて彼女の秘蔵の品を見せたり、そこに来た様々な職業の人に彼を紹介したりした。それを見てジェラードは満足し、ギルフォートもさり気なく様子を観察した。ルビーはもともと貴族の家の子供だったということもあって、こうした上流社会での社交にもすぐに馴染んだ。そして、彼はそこに集まる婦人達の人気者だった。
「ルビー、こちらでカードでもどう?」
「それより、私とダンスを踊ってくださいな」
「あら、次は私達と花摘みをする約束よ」
入れ替わり立ち替わりやって来て彼をもてはやす女達。
(何だかとてもいい気分……)
ルビーは何杯目かのワインをお代わりした。その頬は薔薇色に染まり、僅かに潤んだ瞳は淡い照明に反射して煌いていた。見た目にも童顔の彼は婦人達の母性本能をくすぐるらしく、皆が彼の世話をやきたがった。そして婦人方は皆、彼と踊りたがったし、一度はその手に触れ、キスをしたがった。

「まあま、そんなに取り合っては坊やが疲れてしまいますわ」
ノイエハルト婦人が取り巻きの中からルビーを連れ出し、サロンの奥で休ませてくれた。
「ごめんなさいね、ルビー。少しお休みになって、それからぜひ、あなたのピアノをお聴かせくださいね」
「もちろんです。ぼくは疲れていません」
ルビーは言った。しかし、婦人は無理をしてはよくないからといろいろ気を使ってくれた。
「では、ピアノの用意が整いましたらお呼びしますわ。それまでどうぞくつろいでいらしてね。何かありましたら、そこのベルを鳴らして使用人に何なりとお申し付けくださいな」
と言って婦人は出て行った。

それから運ばれてきたワインを飲んでいるとギルフォートが来て言った。
「おい、顔が赤いぞ。大丈夫か?」
「平気だよ。ここはとても素敵な場所だ。気に入ったよ」
「ターゲットは確認した。適当なところで合図を送る。いいな?」
「……うん」
グラスに唇を押し付けたままルビーが応じる。楽しい気分が台無しになった。
(そうだ。ぼくはここへ遊びに来た訳じゃない……)
彼は恨めしそうに男を見上げた。が、銀髪の男は何も応えてくれない。ルビーは空っぽになってしまったグラスを手の中で弄んだ。
「わかってる……」
でも……という言葉を少年は飲み込んだ。
(もう少しだけ楽しませてよ。次はピアノを弾くんだから……)
「演奏が終わったらもう一度接触する」
見透かしたように言うと男はまた人込みに紛れた。

 そのピアノは少し年代物のプレイエル製だった。ショパンが愛したというそのピアノを前にしてルビーの鼓動は高鳴っていた。細い軸足に施された美しい細工とバランスのとれたフォルム。鍵盤は磨き上げられ、行儀よく並んで彼の指に触れられるのをじっと待っている。
(ああ……ぼくのピアノ……)
淡い霧に包まれて彼は今、そこにあるピアノだけを見つめていた。意識が時を駆け、何かを見い出そうとする。それが何かわからないまま、彼は夢の中を彷徨っていた。まるで吸いつけられたように指先がすっと触れた瞬間、急速に、そして軽やかに鍵盤の上を舞う。なめらかな音の絨毯に時折小さな煌きの宝石が混ざり、聴く者の心に忘れ得ない印象を与えた。

ルビーとピアノと天界からの光……。周囲の景色がモノクロームに霞み、それぞれの心の奥で記憶が巡る。心地よい淡い色彩の時間……。そして光……。注がれた愛と悲しみの記憶……。しかし、それはいずれ美しい鳥の囀りとなって空へと還り、彼は音楽の精霊としてそこに現れ、演奏を続けている。彼の周囲を飾る葉の1枚1枚が、その花びらのすべてが、彼に求愛を申し込む。もはや、彼が何者であろうと気にする者はない。そこにあるのはルビー ラズレインという人物ではなく、正に音楽という本質そのものなのだ。それは確かに存在し、目の前にいた。しかし、それが確かなものなのだと誰に断言することが出来るだろうか。彼の存在は稀有なのだ。あってないがごとく、集団で見た幻に過ぎないのかもしれない。幻想……。それほどまでにルビーの演奏は高みを逸し、際立っていた。

「素晴らしいわ……」
ノイエハルト婦人がうっとりと呟く。曲が終わり、ようやく彼の周囲に色彩が戻って来た。と同時に、無機質な物達の輪郭も聴いていた者達の心の雑念や環境音も、幻想という虹のトンネルを抜けて、再びここに戻って来た。

「ブラボー!」
誰かが叫ぶ。
「ブラボー!」
そして拍手……。ルビーはその夜、ショパンの曲を6曲弾いた。
「本当に素晴らしかったわ。ルビー。ありがとう」
ノイエハルト婦人が言った。
「いえ。ぼくの方こそお礼を言いたいくらいです。あのピアノを弾かせてくれてありがとう」
「あのピアノは気に入って?」
「ええ。100%じゃないけど、よくここまで再現出来たなって……」
「もう当時の部品は手に入らないのでなるべく近い物を特注したのよ」
「そうですか」
「また、機会があったら聴かせてくださいね。あなたのピアノ」
「はい。喜んで」
「あなたのあとでは霞んでしまうでしょうけど、このあともまだいろいろ趣向を凝らした催しを用意していますのよ。どうぞ楽しんでいらしてね」
「はい。ありがとうございます」

婦人が離れるとルビーは飲み物を配っていた給仕からワインを受け取るとそれを飲みながら周囲を見回す。しかし、あまりに広いのと人が多いのとで、誰が何処にいるのかほとんど判別出来ない。その間にも次々と人がやって来てルビーに挨拶したり、先程のピアノの演奏を褒めてくれたりした。彼にとっては初めての経験ばかりだったが、慣れるとそこは結構居心地のよい場所に思えた。何より自分のことを認めてもらえる。そして、演奏を褒めてもらえた。それがルビーにとって何よりもうれしかった。それからまた、たくさんの人と握手をし、会話をし、そしてダンスをした。招待客のマジックを見たり、美しいコーラスや民族楽器の演奏も聴いた。楽しい時間……。
(ずっとこのままでいられたらいいのに……)
そうして、婦人と何度目かのダンスをした時、大きな丸い柱の向こうに銀髪の男の姿を見つけた。
「ちょっと失礼します」

ルビーは婦人と離れてさり気なく男に近づいた。
「奴は庭に出て行った」
外はすっかり夜の帳に包まれていた。が、そこここに灯された明かりは一種独特の雰囲気を醸し出している。客の何人かは庭に出て涼を取っていた。
「チャンスだ」
男が言った。外ならば死角が多い。それに、人の数も少ない。
「わかった」
ルビーは頷き、さり気なさを装ってそっと外に出た。ルビーがいなくなったことに気づいたとしても、ジェラードとエスタレーゼがうまく取り繕ってくれるだろう。あとは確実にターゲットを仕留めればいい。

そして、その男は都合よく一人だけ離れた菩提樹の木の側に立っていた。誰かと闇の取り引きをするつもりかもしれない。男は時折、腕時計を見ながら周囲を気にしていた。そして、ルビーは男が振り向いた時、その顔を確認した。写真で見た人物、ヨハン カーレブ。奴に間違いない。ルビーは頷き、ギルフォートはその場を離れた。男までの距離はルビーの射程ぎりぎり。だが、その位置からならば未だ外したことがない。何もかもが完璧に計算されている。
(大丈夫だ。まだ気づかれていない)
ルビーは何度も心に言い聞かせる。
(絶対にばれることはない。だから……)
ルビーの手には何もない。念を使ってのシューティング。それなら証拠もなく、ターゲットに気づかれることもない。そして、それは、同時に実験でもあった。未知数である彼の念の力が実践で役立つものかどうかを判断するための……。男は背中を向け、半分木の幹に隠れている。

(どこを狙う? 背中? それとも頭? でも、ここからだと木が邪魔だ。あと1歩横に動いてくれたら……)
頭の中では冷静だった。しかし、心は動揺を隠せずにいる。動悸。そして眩暈。握った手はじっとりと汗で濡れている。時間が経てば経つほど動悸は激しくなった。
(どうして? 心が痛い……。息が出来なくて苦しい……。でもやらなくちゃ……。あいつは悪い奴なんだ)
しかし、男は動かない。
(苦しい……)
こみ上げて来る吐き気を懸命に押さえながら。じっと男を観察する。
(あいつは悪い奴だ。あの院長や大学教授みたいに……。生かしておいたらいけないんだ。そうしたら、また誰かが泣くことになる……。だから、その前にぼくが殺す)
視界が霞んだ。何故か涙が溢れそうになっている。

(殺す!)

男が動いた。1歩。2歩。完全に木から離れた。
(今だ)
ルビーは念の力を指先に集中した。そして、男の背中を狙う。とその時、不意に男が振り向いた。
「あ!」
一瞬の同様。しかし、念は既にルビーのそれを離れ、男に向かう。が、男は何かを察したらしく僅かにそれをかわすと懐から銃を抜きこちらに向けて発砲した。が、硬直したまま動けないでいるルビーを背後から突き飛ばし、目にも止まらぬ速さで銃を撃った男がいた。ギルフォートだ。ヨハンの手から銃が落ち、ゆっくりとその体が闇に沈む。
「ルビー!」
ギルフォートは脇で反応しない子供に声を掛ける。銃声に警備員達が駆けつけ、家の中や外に出ていた人々もばらばらとやって来る。

「おれは見たぞ。菩提樹のところから男がいきなりあの子に向けて拳銃を撃ったんだ」
遠くで叫んでいる者がいた。
「そうよ。わたしも見たわ。銀髪の人が男を撃ったの。でも、そうしなければ坊やが殺されていたわ。これは正当防衛よ」
女も叫ぶ。館は大騒ぎだった。
(失敗……した……)
ルビーは蒼白な顔で男を見上げた。全身が震え、声が出なかった。涙で視界が歪み、そこにいるすべての者が怪物のように見えた。闇が彼を取って食おうとし、喧騒は得体の知れない怨霊の声に聞こえた。体の中のすべてのものが逆流して行く……。絶えられない苦痛と恐怖で彼は震えていた。

「ギルフォート。坊やを部屋に……。必要があれば医者を呼ばせます」
ノイエハルト婦人が言った。
「わかりました」
彼はルビーを抱き上げるとそのまま館の中へ入って行った。それを見てまだざわめいている者達に向かって婦人は言った。
「お黙りなさい! ここはわたしの館です。勝手な真似は許しません。じきに警察が来るでしょう。それまで静かにお待ちください」

 案内された部屋に連れて行くとルビーは何度も洗面台で吐いた。何かを言おうとして喉を詰まらせ、涙を流す。そっとその背を摩ってやるが、それさえも拒絶した。幸い、ヨハンの撃った弾丸は逸れてルビー自身に怪我はなかった。が、それ以上の深手を心に負った。
「ごめんな…さい……」
消え入りそうな声でルビーが言った。
「怖かったの。ぼく……とっても怖くて……それで……。人が死ぬのを見るの……とても怖い……! ぼくはとっくに人殺しだけど、それでも……人を殺すのはいや……。怖い……怖い……すごくこわいの! 怖くてしょうもないの! ぼく……ぼくは……!」
嗚咽に混じって聞こえた途切れ途切れの声……。
「ルビー……」
少年はそのまま意識を失った。ギルフォートはそっと彼をベッドに運んで寝かせるとネクタイを外し、シャツのボタンを開けて胸元を楽にしてやった。全身がぐっしょりと汗で濡れている。汚れた口元や汗ばんでいる首や胸元をタオルで拭く。握った手はまだ微かに震えていた。

 「ジェラード」
重い口調でギルフォートは言った。
「ルビーにこの仕事は向いていません。これ以上訓練を続けても奴を追い詰めるだけです」
屋敷の中の一室だった。警察は形だけの事情聴取をし、客達はそのまま家に帰された。明日になれば新聞が自己死として小さな記事を載せるだろう。それですべてが片付いてしまう。そういう世界だった。ジェラードはじっと男を見つめて言った。
「なら、どうしろと言うのかね?」
「それは……」
言葉に詰まるギルフォートに男は微笑して続ける。
「まさか、今更シュレイダー家に帰す訳にも行くまいよ。ルビーはもう2年半もここにいて組織のことを知り過ぎているからね」
男の手にした葉巻の煙が所在なく部屋にたなびく。
「では、どうしろと……?」
その煙を目で追ってギルフォートは言った。
「おまえが始末しろ」
ジェラードは淡々と言った。

「しかし……」
彼は一瞬目を伏せた。
「逆らうのかね?」
「いえ……」
ジェラードは吸っていた葉巻をぐいと灰皿に押し付けて言った。
「情が湧いたか? おまえらしくもない」
「……」
「それとも死んだ弟の代わりにでもしようと言うのかね?」
「いえ。ただ……」
「ただ?」
「そんなことをすればお嬢さんが悲しむでしょう。彼女はルビーのことを可愛がっていましたから……」
ジェラードが捨て置いたそれを見つめて言う。
「すぐに忘れるさ。組織ではよくあることだ」
キャビネットの格子が照明に反射してジェラードの顔に影を落とす。
「おまえがやらなくても組織の誰かがやる。グルドは奉仕団体ではない。役に立たない者を無償で置いてやる余裕はない」
「わかりました」
ギルフォートは黙ってその部屋を出た。

 確かにルビーにこの仕事を強要するのは酷かもしれなかった。こんなことを続けていけば、いずれ繊細なルビーの精神は崩壊してしまうだろう。そして、ジェラードの言う通り、一度組織に入ったからには二度と出ることは叶わない。ならばいっそ、この場で死なせてやる方が彼にとっては幸せかもしれない。もともと、彼はシュレイダー家にとっても死んでいるに等しい子供なのだ。いくらピアノの才能があったところで世に出られないのであれば意味がない。
(このまま生かして苦痛を与え続けるよりはいっそこの手で……)
ギルフォートは長い廊下を歩きながら決断を下した。
(もうこれ以上、苦しませることはない)

 そっとドアを開けると、ルビーは目を覚ましてベッドの淵に腰掛けていた。まだ顔は青ざめたままだ。
「起きていたのか」
入って来た男の顔を見てルビーは言った。
「警察……来た?」
男が頷く。
「それじゃあ、ぼくを捕まえる? それとも、あなたを……」
「いや……。警察は誰も捕まえない」
それを聞いてルビーはほっとしたようだった。
「よかった。もし、ぼくが失敗したせいであなたが警察に捕まったらどうしようと思ったの」
「そうか」
「でも、何で? どうして警察はぼく達を捕まえないの?」
「警察もヨハンのやってきた悪事のことは把握している。それに、ここはフラウ ノイエハルトの館。彼女の許可なく勝手な振る舞いは出来ない。たとえ、それが警察であろうと軍であろうとね」
それがグルドの闇の組織の力なのだ。が、ルビーには理解出来ないだろうとギルフォートは思った。理解出来ないままに殺せと命ずるジェラード。逆らうことの出来ない絶対的な命令。
(殺るならせめて……)
ギルフォートはじっと見つめて来る子供の瞳に宿る恐怖を見て哀れに思った。

「医者は来ないよ」
ギルフォートが言う。子供は微かに頷いた。それから、ポケットの中からキャンディーを取り出す。いつも褒美として与えていた物だ。ルビーが好んだ味のそれを差し出す。が、子供はじっと男を見つめたまま動こうとしない。
「どうした? 欲しくないのか?」
ルビーは、ただ黙って男の手を見つめている。白い照明の光が包み紙に丸い光目を当て、
赤い果実が彼に笑い掛けていた。
「ぼくを殺すの?」
やがて顔を上げたルビーがじっと男の顔を見つめて言った。
「……」
彼は無表情のまま子供を見つめ返す。
「そうなんでしょう?」
男は答えなかった。

「知ってるんだよ、ぼく」
ギルフォートは静かに手の中の包み紙を握る。そして。
「何を……だ?」
抑揚のない声で問う。
「聞いちゃったんだよ、ぼく。使用人達が話しているのを……。失敗したら殺されるって……。前に一度、使用人の一人が急にいなくなったことがあった。彼は何かの任務に失敗したから殺されたんだって……」
泣きそうな顔でルビーは訴えた。
「そんなこと……」
ギルフォートは否定し掛けて止めた。

「ぼくをジェラードのところに連れて来てくれたフィリップは酒場で簡単に人を撃った。ぼくは見たんだ。だから本当なんだと思う。失敗したら殺されるって……。だからぼくも……」
その頬につうっと幾筋も涙が伝う。
「ぼく……」
ルビーは泣きながら男の方へ手を伸ばす。
「次はきっと上手くやる。だから、お願い!」
縋るような目で言った。
「お願いだから、ぼくを殺さないで……!」
そう言うとルビーは男に強くしがみついた。
「もう何処にもいられないの。ぼくのいる場所はここにしかないの。次はもっと上手にするから……。きっと上手く殺せるようになってあなたの望むように……きっと役に立ってみせるから……。お願い! ぼくを殺さないで……!」
泣きじゃくる子供……。
「ルビー……」

――おれのいる場所は、もうここにしかないんだ
昔の自分が思い出される。
――もう、ここで生きるしか……

「おまえが撃った念は奴の胸に当たった。だが、一瞬の怯みが威力を半減させたんだ」
「本当?」
男が頷く。
「そうだ。だから、完全に失敗した訳じゃない……」
「ギル……」
ルビーは少しだけうれしそうな顔をして言った。
「キャンディーちょうだい」
ポケットに手を入れようとする子供の手を掴んで、ギルフォートは首を横に振った。
「もう少し休んだ方がいい。あとでもっといい物を持って来てやる」
ギルフォートは軽くその頭を撫でるとそこを出た。

 「もう一度チャンスを下さい」
その足でギルフォートは再びジェラードの部屋を訪れた。
「もう一度?」
ジェラードが振り向く。と、銀髪の男は頷き、そして告げた。
「ルビーはこのままでは終わらない。いえ、終わらせない。おれが責任を持ちます」